日本人初の女子留学生アメリカへ11月12日に出発!家族の思いとは?

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岩倉使節団

岩倉使節団のコース

引用元:日本の歴史辞典

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11月12日 日本人初の女子留学生アメリカへ出発した日

幕末から明治初年、
福沢諭吉や伊藤博文など
多くの日本人が欧米に留学し、
近代文明新しい思想
文化、教育、法制度など
学んで持ち帰った

ほとんどが男だが、女性が5人
それも6歳から16歳の少女がいた。
(北海道開拓使が募集した最初の女子留学生)

1871(明治4)年
11月12日に
岩倉使節団に同行する50人余の
留学生の一員として訪米した。

岩倉使節団に同行した女性5人とは?

津田梅子 (当時6歳で最年小)

英語の単語を2、3語ほど
知っている程度でした。
アメリカで小学校を終え、
女学校にも進み、フランス語やラテン語、
数学、物理学、天文学などを学び、
11年の間アメリカで暮らしました。
8歳のときには、
キリスト教の洗礼も受けました。

後に女子英学塾
(津田塾大学の前身)を設立。

2024年から新5000円札大。
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山川捨松 (当時 11歳)
山巌(明治の元老。元陸相)の夫人となる。

永井繁子 (当時10 歳)
日本女性初の大学卒で女子高等師範学校
(お茶の水大学の前身)の教授を務めた。

吉益亮子(当時14 歳)
上田悌子(当時16 歳)

吉益亮子と、上田悌子は、
アメリカ到着から1年もたたない
明治五年(1872)10月に
帰国することとなります。

吉益亮子は眼病だったと伝わりますが、
悌子のほうは具体的な病名など
はよく分かっていません。

一説には慣れぬ異国の地で、
心身を病んだためだと言います。

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少女を異国へ送る親の心情とは

・津田梅子 父・津田仙

なんとしても、娘にチャンスを与えたい
年齢は関係ない、幼い方が吸収がよい。
と考えた。

・山川捨松 母・唐衣

子ども達の教育重視

捨松の幼名は咲子でしたが、
母の唐衣は
「この末娘を捨てたつもりで
生きながらも、
我が子が学問を成就し、無事に
帰国することを待つ」
という思いを込めて、
米国に送り出す前に改名。

・永井繁子 父・益田鷹之助

女子の養育を案じたは、
軍医の永井玄栄のところに
5 歳の繁子を養女に出した。

兄の益田徳之進(後の孝)は
1856 年、幕府に命じられて
アメリカ公使館に勤め
た経験もある開明的な人物。

兄の益田徳之進(後の孝)が妹である
繁子の留学を強く願い
繁子の養父・玄栄に理解を
求めた。

当時、幼少の少女が家族と
離れてアメリカに留学すること
自体が前代未聞でしたし、
日本人の少女達が 10 年もアメリカで
過ごしたらどのような結果になるのか
全くの未知数でした。

送り出す家族の側では、
リスクがあること
を承知しながらも、それ以上に、
自らの子女がアメリカで
教育を受けることによって、
本人はもちろん日本にとっても
大きな利点がある、という時勢を
読んだ判断ができたのでしょう。

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まとめ

現在日本では、戦争がなく
平和に暮らすことができます。

社会は情報化、AI、
お金持ちとそうでない人の二極化が
どんどん進んでいく世の中で
リスクを考えながらも、
未来のためには先進者へ
学びに行くことが一番よいと思います。

現在日本では、戦争がなく
平和に暮らすことができます。
食事も食べられ、
寒ければ暖房や炬燵やヒータが
あります。
暑ければクラーもあります。
衣食住が恵まれている環境の中で
あなたは娘を海外へ留学できますか?
私はできるだろうか…

実際に、行かれた5人の女性も
その親族の覚悟もそうとうな
ものだったでしょう。
親強し 子も強し


岩倉使節団について、
詳しく知りたい方へお勧めのユーチューブ

「岩倉使節団が世界で目の当たりに
したものとは?ビスマルクの衝撃の教え」

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